半纏

江戸の着こなし 半纏編

法被の由来

法被(法被)の歴史は、江戸時代まで遡ります。江戸時代初期に武家が着物の上に羽織り着始めたものが法被の始まりといわれています。当時の武家は、胸紐付き単(ひとえ)に衿を折り返し、家紋を入れ羽織のように着用されていました。当時は、法被を着用していたのは身分が高い武家だけでした。「羽織袴」庶民の間でも法被への関心が高まったのですが、身分の差を明確にするため、法被着用の禁止令が出されたため、庶民は法被の着用ができませんでした。

江戸時代末期になると、衿を折り返さずに着用する法被が庶民に広まり、法被着用の禁止令をかいくぐり、これを庶民は半纏と名付け、江戸時代後期から大流行となりました。庶民の間では家業の印(紋)を半纏に入れ、一目で家業は何なのか分かるようになりました。当時はまだ、現在の様な染色技術なく、藍染の半纏が多かった様です。その頃から、大工職人や植木職人、火消しなどの労働者の作業着として半纏は広く着用されるようになり、現在では、祭や様々なイベントで着用されるまで普及しました。
 

半纏と法被の違い

では、法被・半纏の違いは何かですが、上記のように武家が着ていたものを法被、庶民が着ていたものを半纏という説もありますが、現在では仕様の違いもありません。また、西日本を中心とした山車を引く祭の地域では法被と呼ばれており、東日本を中心とした神輿を担ぐ祭の地域では半纏と呼ばれることが多いそうです。

半纏の種類

祭半纏:

祭半纏(まつりはんてん)は、祭りやイベントなどで着用される上着の一種です。「法被(はっぴ)」とも呼ばれますが、仕様に大きな違いはありません。祭半纏も江戸時代の庶民の法被・半纏として使われていたことが起源となりますが、江戸時代の祭事は町火消しが仕切っており、町火消しの半纏のスタイルが実に勇ましく粋であったため、庶民の憧れだったと言われています。その姿を町民たちは真似て着用したのが現在の祭半纏に受け継がれています。現在の祭で着用する半纏は、以下の特徴があります。

 
素材- 綿で作られていることが多いが、近年ではポリエステル製も多くなっている。柄・各町会や神輿同好会などで揃いの半纏が作られおり、神輿を担ぐ際には指定の半纏が必ずある。

種類- 祭りごとにデザインが異なっており、江戸前、よさこい、山車などでは半纏の種類が違う。

以上のように、江戸時代から現代に至るまで、お祭りで着用する半纏も多種多様になっており、地域や祭事に変化を遂げています。祭半纏の中でも様々な種類がありますので、以下で説明します。

※画像の説明を入れることもできる

※画像の説明を入れることもできる

半纏の着こなし

半纏の着こなしとして、着物や浴衣と同じように男女共通で左襟が前になります。分かりやすく、左前と覚えた方がいいかも知れません。半纏のサイズは、町会で作られる神輿半纏は丈が短めなものが多かったのですが、最近では江戸前の粋な着方として、膝上までの長めのものが主流となってきている様です。また、現在の町火消しでもある、鳶の組頭の方々の着こなしは、半纏の前合わせがピッタリ合うように着こなされており、帯も腰で巻くのではなく、ヘソの少し下で巻く方が粋になります。ただ、この半纏の着方は半纏がはだけるため、かなり上級者の着こなしになります。

江戸前の半纏の着こなしは、前をはだけさせずにピシッと着こなされた方が粋ですね。祭でよくお見かけするのは、半纏のお腹に色々詰め込んで帯に半纏が覆い被さるようにしている方もいらっしゃいますが、この着方はあまりおすすめしません。できれば、必要最低限の持ち物で粋な合財袋などございますので、そちらにお財布などを入れてご利用ください。祭衣装は、着こなしでだいぶ見た目が変わりますので、是非、挑戦してみてください。

ページトップへ矢印